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 今日のグローバルになった広い文化の世界には、キリスト教の影響があります。音楽会で演奏されるミサ曲やオラトリオなどクラシック音楽も美術館に展示される西洋の絵画も、聖書の物語を抜きにしては理解できません。それだけでなく、今の不透明な時代には、真のよりどころが必要ではないでしょうか。

 私たちはイエス・キリストを心のよりどころとして豊かな人生を歩むことができます。文化的な関心をもっている方、また現代の心のよりどころを求めている方、教会の礼拝に来て見ませんか。どなたでも歓迎いたします。

富士見丘教会ホームページhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~fujimigaokachurch/index.htm
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9月11日 説教を受けて  『あなたは神の子です』

2016/10/01 20:35
  ルカによる福音書2章25〜38節

 富士見丘教会に集うすべての者、CS生徒、保護者と求道者、教会員が一堂に会し、敬老お祝いファミリー礼拝を守れたことは感謝であった。人生の歩みは、神を愛し信頼する一人一人の歩みの上に、神の愛と祝福が積み重ねられていく歴史であるとのメッセージが与えられた。曰く、「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」(箴言16・31)、「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46・3〜4)、「わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。」(イザヤ71・18)

 イエスが両親に抱かれて神殿に捧げられた時、神殿で二人の老人が待ち望んだ主の約束が実現した。信仰があつく正しい人シメオンは幼子を腕に抱き、喜んで神を賛美した。84歳になるやもめ暮らしの女預言者アンナは、近づいて来て神を賛美し、救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。二人はイエスを待ち望み、イエスとの出会いを喜び、安らかに人生の終りを迎えることができた。

 シメオンとアンナが、一度だけのイエスとの出会いの期待と待望、それが実現されたときの喜びのありさまが描写されているこの聖書個所を繰り返して読むとき、私たちは週の初めの聖日の礼拝を迎える姿勢、教会での兄弟姉妹との主にある交わりのとき、そして日毎の御言葉の学び中で、主イエスにまみえていることを体感し、その喜びと感謝を新たにしなければならないと思った。 (大橋祐治)

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先週の説教(2016年9月18日)を受けて 『命から命に至らせる香り』

2016/09/23 21:29
詩編 16篇1〜11節
コリントの信徒への手紙U 2章5〜17節


 本日の聖書の箇所で、悲しみの原因になった人や原因について語っていないが、パウロにとってそれは重要でないからである。悲しみの原因になった人も多数の人も、主イエス・キリストから愛され、赦された者として主イエス・キリストに結ばれているからである。悲しみの原因になった人から離れればよいというものではない。何故ならば、その人も神様から愛されている者だからである。
 このコリントの教会で起こった問題は、私達の教会でも起こっていないだろうか?本当は一緒に祈っているべき人が去っていってしまったことはないだろうか?赦すとは、忘れるなどという消極的なことではなく、相手のために恵みを与えて相手が生きる力を得て元気になるように励ますことである。パウロが赦すと言っているのは、その力がイエス・キリストにはあり、その力の中に自分も置かれていることを自覚しているからである。
 主イエスが「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(マタイ15:11)と教えているように、私達の心から、口から香りが出る。心の中に欲望・妬み・憎しみ・呪いなどがあると、口から出るのは死から死に至る香りである。神様に捧げる賛美・祈り・感謝・奉仕を、神様は喜んで受けてくださる。そして、それが復活・永遠の命といった命から命に至らせる香りとなっていく。
 パウロが問うている。「このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」それは私達一人一人である。今週も、キリストの香り(命から命に至らせる香り)を放ちながら、この世の歩みへと出ていきたい。(日吉実)
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先週の説教(2016年8月21日)を受けて 『すでに実現した』

2016/08/27 18:45
イザヤ書 61章1〜4節
ルカによる福音書 4章14〜30節


 イエス様は“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られたとあるが、聖霊とは「教え、整えてくださる方」と言い表すことができる。つまり、福音を教えてくださり、御言葉を聞き行うのに相応しい状態に整えてくださる。そして、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙一 12章)
 聖霊の力に満ちたイエス様は、教え、整える方としてナザレに戻られた。そして霊に満ちた言葉で語って整えようとしたが、ナザレの人々は受け入れなかった。更にユダヤ人ではなく異邦人に遣わされたエリヤ(列王記上 17章)やエリシャ(列王記下 5章)を例に、ナザレの人々に「本当にそれで良いのか?」と問うている。しかし、ナザレの人々は完全にイエス様を拒絶した。
 私達の心の中にも、このナザレの人々のようなものはないだろうか?私達を整えようとする聖霊の働きを歓迎できない思いはないか?イエス様は私達に「それで良いのか?本当にそれで良いのか?」と問うている。整えてくださる手を拒んではならない。現代には、ありのままが良いという風潮があるが、信仰は整えられなければダメである。からし種ほどの信仰さえあれば良く、次のステップとして、その信仰を育ててくださる神様を求め、聖霊の働きを祈りつつ求めることが大切である。
 私達の信仰生活は、この繰り返しである。聖霊に満たされて成長し、栄光から栄光へと、神の御姿に造りかえられる。祈りつつ求めていきましょう。(日吉実)
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8月14日 説教を受けて 「私たちの勝利」

2016/08/20 17:47

  申命記6章10〜19節、ルカによる福音書3章23節〜4章13節

 洗礼者ヨハネからバプテスマを受け、「あなたはわたしの愛する子」「私の心に適う者」という天からの声を聴かれたイエスは、神のみ心のままに人間の罪の執り成し手として十字架への道に向けての歩みを進められた。福音記者ルカは、その前に「イエスの系図」と「荒野の誘惑」について記している。イエスの系図はアブラハムを経てアダムまでさかのぼるが、これは人間の罪、イスラエルの民の神への背信の歴史であり、それにもかかわらず、神は大いなる憐れみと愛によって人類を、イスラエルの民を見捨てず、神への立ち返りへと導いてくださってきた旧約の歴史(旧約聖書)を背後に物語る。そして、神の正義と愛、罪の赦しはイエスの十字架によって成し遂げられたことを系図は示している。荒れ野での誘惑(試練)において、主イエスは神の声を聴かれ、人間の罪の解放、罪の執り成し手としてのメシア、即ち十字架の道への選択を選ばれた。ここに私たちの勝利がある。

 イエスはサタンの三つの誘惑をみ言葉(旧約聖書)によって退けられた。曰く、
「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」
「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」
「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」

 イエスの三つのサタンの誘惑に対する答えは、私たちの信仰生活を根底で支えるみ言葉の真理である。イエスはサタンの誘惑を退けて私達の罪の贖いとしての十字架への道を選び歩まれた。私たちも主イエスの十字架の愛と憐みに応えて、この世の様々な誘惑に打ち勝つキリスト者としての歩みを進めたい。(大橋祐治)


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7月31日 説教を受けて 「イエス様のバプテスマ」

2016/08/10 08:43

   詩編42篇1〜4節、ルカによる福音書3章15〜22節

 民衆はメシアを待ち望んでいたので、ヨルダン川で多くの人々に洗礼を授けている洗礼者ヨハネをメシアではないかと思っていた。しかし、ヨハネは、“わたしは、わたしの後から来られる方の履物のひもを解く値打ちもない”とイエスを指し示す者としての役割に徹し、ひたすら主の道をまっすぐに整えよと民衆に悔い改めの洗礼を授けた。

 コリントの信徒への手紙U4章【土の器に納めた宝】5節で、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」とパウロは記している。1953年から2年間、新設された国際基督教大学に招聘された神学者エミル・ブルンナーは日本を離れる最後の講義で次のように語ったと言われる。「私は、イエス・キリストの栄光の光を示すべきランターンの周りを自分の名前で埋め尽くしてしまってイエス・キリストの光を覆ってしまったのではないか」と。改めて、イエス・キリストに従いイエス・キリストを指し示す証し人としての役割の大切さと難しさを感じる。

 罪のない、悔い改めの必要もないイエスがなぜ洗礼者ヨハネから洗礼を受けなければならなかったか。マタイによる福音書によると、ヨハネの制止に対しイエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とお答えになった。イエスは罪人であり悔改めを必要とするわたしたちと同じ立場にご自身を置き、神のみ心、即ち私たちを神のみ国へと導く道を選ばれたのである。イエスは「あなたはわたしの愛する子」「わたしの心に適う者」との天からの声を聞かれた。それは苦難の僕としての道であり、十字架への道である。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」のみ言葉生きる者と成らしめてください。
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先週の説教(2016年7月17日)を受けて 『アメイジング!グレイス!』

2016/07/24 06:54
ヨハネによる福音書 3章16〜17節

 「アメイジング・グレイス」を作詞したジョン・ニュートン牧師のお母さんは非常に熱心なキリスト教徒で子守唄の代わりに讃美歌を歌うような人であった。しかし、7歳の時にお母さんが病死、ジョン先生は寂しい少年時代を送った。そして17歳の時にお父さんに憧れて船乗りになったが、荒れた船上での生活でジョン先生の心の中から神様のことを信じる心が失われていき、三角貿易(黒人奴隷貿易)にも手を出してしまった。
 しかし、ジョン先生が22歳の時、非常に酷い嵐に遭い、神様に祈るしかない状況で22年間の自分の人生を思い返した。そして嵐が過ぎ去った時、こんな愚かな罪人である私を、命をかけて愛してくださる偉大な救い主イエス様を信じ、イギリスに戻ると船を降り牧師となった。
 私達人間は一人として清い人はいない。こんな状態であれば神様から放っておかれ、消し去られてもしょうがない存在である。しかし神様は私達一人一人の存在を知っていてくださる。そして神様は行動起こし、イエス様を遣わされて私達の罪を赦し、永遠の命を与えられた。受け入れる人は誰でも滅びることがなく永遠の命を与えられ、天国に行くことができる。
 もう私達は何もすることがない。ただ神様を信じるだけである。神様の愛を受け取る時、新しい愛に満ちた人生が私達のうちに始まっている。クリスチャンはこの新しい人生を歩み出した人のことである。是非、この神様の愛を受け取って欲しいと思う。(日吉実)
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先週の説教(2016年6月19日)を受けて 『人生の転換』

2016/06/26 19:15
イザヤ書 40章1〜5節
ルカによる福音書 3章1〜14節


 本日の聖書の箇所は、ルカによる福音書に独特の記載である。一つは、証拠立てて年代をはっきり示し、事柄の真実性を訴えていること。これから語るイエス様の福音が真実であることを示している。そして、もう一つは、預言者が召命を受ける時などに使われた旧約聖書的な言い回し(「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」)を用いていること。これは、洗礼者ヨハネが預言の成就であることを示している。
 ヨハネの洗礼は、悔い改めた後、悔い改めのしるしとして受けるものであり、「我々の父はアブラハムだ」といって自らを清い者としていたユダヤ人達には衝撃であり、その傲慢さを打ち砕くものであった。私達にも、同じような傲慢さはないだろうか?省みてみる必要がある。
 「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」必要があるが、私達はなかなか受け入れることができない。しかし、イエス様はあきらめずに関わり続け、聖霊を注いでくださる。それにより私達の人生が良い方向に主によって転換させられていく。そしてパウロがコリントの信徒への手紙二5章で語っているように、古い生き方は価値がなくなるのである。
 イエス様は私達の所へ既に来て、共に居てくださる。このことは、恵み以外の何ものでもない。洗礼者ヨハネは、悔い改めを迫り、そのことを叫ぶために命を捧げた。教会は、その働きを今なす共同体である。イエス様の到来により、イエス様が私達の罪を贖い、永遠の命を与えてくださるという福音を再び受け取って歩んでいきたい。(日吉実)
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