6月12日 説教を受けて 奨励 「いつでも、どこでも、だれにでも」  佐藤義孝兄


   聖書:詩編71篇15~19節

 「今日、この御言葉が与えられました。」み言葉によって一日を始めることが出来る事はキリスト者として恵みであり、慰めであり、励ましです。聖書を開き、或いはローズンゲンのような日々の聖句や信徒の友の“日毎の糧”によってその日の御言葉を与えられることもあるでしょう。しかし、悲しみや苦しみ悩みなど心が迷っていて本当に落ち込んでしまっている時に、ふと或るみ言葉を思い出したり、たまたま開いた聖書の個所のみ言葉によって癒され慰められ励まされ、そして進むべき道を示される時こそ信仰を与えられた恵みを感じるのではないでしょうか。聖書のみ言葉の力は主イエスの十字架の愛によって裏打ちされています。

 イクイップ日本の佐藤義孝兄がそのことを詩編71篇によって証しされました。
鏡に映ったやつれた自分を見て、もう自分の伝道の業は終わったのかと落胆していた時にこの御言葉が与えられました。私が老いて白髪になっても神はわたしをお見捨てにならない。否、絶えることなく恵みの御業を語り、来るべき世代に語り伝えよ、とのみ言葉を聞いて迷いから覚めて再び学生伝道の業に励むことになったとのことでした。この詩編はダビデによる詩と言われていますが、神はダビデが母の胎にある時から若い時代を通して、そして老いの日に至るまでダビデの近くにいて恵みの御業を示されました。それ故、ひたすら恵みの御業を唱えましょう、とダビデは歌います。

 私たちの日毎の歩みは恵みの御業によって支えられています。私たちは出来ないこと、持っていないものを数え上げて言い訳をしていますが、出来ること、持っているものを数えることによって恵みの御業に与っていることを確認しつつ、驚くべき御業を語り伝える信仰に生きたいと思います。(大橋祐治)

先週の説教(2016年5月15日)を受けて 『シャカイナグローリー』

ハガイ書 2章1~9節
使徒言行録 2章1~13節


 ペンテコステは、私達にとって非常に重要な日である。ペンテステの出来事が無ければ、聖書のイエス様の十字架と復活の以後の出来事がなかったことになってしまう。聖書は福音書で終わりとなり、イスラエルから八千キロ離れた日本に住む私達に福音が伝わっていないことになる。使徒達・聖霊の働きなしに私達はここに居ない。ペンテコステを祝うことにより、教会は強められていく。主が特別に私達に与えてくださったのが聖霊であり、私達も特別の思いをもってペンテコステを祝って歩んでいきたい。
 本日の聖書の箇所では、人間の目で見る時に不可能だと思えることが起こっている。これがペンテコステである。イエス様の約束(聖霊によるバプテスマ)の成就により、聖霊が私達の内に住んでくださっている。それが恵みの既成事実なのである。どんなに罪の誘惑に負けようとも、主は私達を見捨てたりしない。
 シャーカン(神が間に住む、動詞)の形容詞がシャカイナであり、私達の間に神様(イエス様、聖霊)が住まわれる=シャカイナな状態を喜び、聖霊の働きをどれだけ歓迎するかが重要である。私達は聖霊のバプテスマを受けている。私達は聖霊の神殿であり、シャカイナな状態にあり、人間の目には不可能なこともできるのである。
 主の臨在の栄光=シャカイナグローリーが私達の内に与えられたのがペンテコステという出来事である。主は私達に勝利を与え、平安をもたらしてくれる。シャカイナグローリーを感謝しつつ、共に歩んで行きたい。(日吉実)

5月8日 説教を受けて 「愛しておられるから」


詩編84篇11~13節、ヨハネの手紙Ⅰ 4章7~11節

 母の日ファミリー礼拝が教会学校の子どもたちと保護者の方々とご一緒に守られたことは誠に感謝であった。礼拝後もご一緒にテイータイムを楽しみ懇談の時を持つことができた。田所慈郎先生のメッセージの中で、2016年度はこのようなファミリー礼拝が6回企画されていると話されたがこれからも大いに期待したい。

 「母の日ファミリー礼拝」で検索すると、富士見丘教会のファミリー礼拝の案内(チラシ)がいの一番に表示されて嬉しかった。また、同じ名称で多くの教会が合同礼拝を守っていることを知った。一方、「母の日」で検索すると、「遅れてごめんね/母の日ギフト」などのコマーシャルが上位を占めていて「Wikipedia」の母の日の説明は後ろの方に、しかもかなり限定的にしか説明されていない。田所慈郎先生の、教会の諸行事が商業化されて本来の趣旨・姿が見えなくなっている、なかでも母の日の市場規模が一番大きいとのお話を裏付けている。母の日が始まった原点が、母に感謝し、母を支え導いてくださったイエス様に感謝する教会での礼拝にあることを忘れてはいけない。

 今から150年前、ウエストヴァージニア州の小さな教会の牧師未亡人アン・ジャービスは南北戦争によって生じた南北間の敵意という心の深い傷を癒すべく2人の娘を育てながら南北間の和解に努めたが、その死後、教会で行われた未亡人の記念礼拝で娘の一人アンナ・ジャービスが母への想いと困難の中で希望を与えて母を支え導いた主イエスに感謝する証しをして出席者を感動させた。そして、出席者に母が好きだった白いカーネーションを渡した。これが母の日の始まりである。アン・ジャービスは主イエスの十字架の愛を知っていた。それ故、隣人を自分のように愛しなさいとの主イエスの掟に忠実であろうとしたのである。母の日は全米に広まり米国の祭日となり世界に広まったが、日本で最初に母の日礼拝が行われたのは青山学院の礼拝堂であった(1913年)。

 私たちも主イエスの十字架の愛に感謝し、互いに愛し合いなさいとのみ言葉に従って歩んでいきたい。(大橋祐治)

先週の説教(2016年4月17日)を受けて 『健康的なクリスチャン生活の秘訣』

申命記 26章16~19節
ガラテヤの信徒への手紙 5章16~24節


 本日の聖書の箇所でパウロは、福音の真理をいかに実生活に適用していくのかを語っている。私達の中には古い性質(肉の欲望で自分を満足させる自己中心的な性質)と新しい性質(イエス様を信じる結果、聖霊によって与えられた神の子としての性質)があり、日々の生活の中で主導権争いを繰り広げている。私達クリスチャンには、新しい性質が与えられたからこその葛藤がある。「イエス様は喜ばれるか?イエス様はどう考えるか?」葛藤に悲観することはない。神の子として歩み出そうとしている証拠である。健康的なクリスチャン生活の秘訣は、疑問や問題の解決を主に求めること、聖霊に依り頼むことである。
 「神の国を受け継ぐことはできません。」(21節)ストレートなパウロの言葉にドキッとしてしまう。クリスチャンでも罪を犯してしまうことがあるが、主は本当に悔い改めるのであれば、その人を軽んじられることはない。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネの手紙一 1章9節)。その罪の告白・悔い改めに導いてくださるのが聖霊である。
 神様は私達に豊かな祈りを与え、栄光から栄光へと主の姿に創り変えてくださる。聖霊の働きが私達の中に現れることを恐れずに歩み、新しい命に生きる神の子としてくださったことを思い返しながら、聖霊の導きに従って前進すること、それが健康的なクリスチャン生活の秘訣である。(日吉実)

2016年3月27日 イースターファミリー礼拝 先週の説教を受けて 『死で終わらなかった』

コリントの信徒への手紙Ⅰ15章12節~19節
イースターは私たちの喜び、世界の喜び、共感できる喜びです。教会はこの喜びをどう伝え続けてきたか、それは聖書に記されている主イエス・キリストの復活をお祝いするためです。主イエス・キリストが十字架の死から三日目に復活されたことは聖書において知ることができる。
弟子たちの裏切り、十字架はイエス様の身に起こったこと、その死は兵士たちが確認している。死者の復活、主イエス・キリストの復活がなければ教会が信じ続けてきたものが無駄になり(14節)、信仰はむなしく罪の中にある(17節)とパウロははっきり言っている。
主イエス・キリストが私たちにお与えになりたかったことは永遠の命、神の国で生きていくことできるようにとの思いに他ならない。
わたしたちには死を考えたくない、死から逃げたいとの思いが強い。しかし、聖書はこの絶望を取り去るためイエス・キリストが十字架に死なれ、私たちに永遠の命を与え復活の喜びに満たしてくださると告げている。イエス様のしてくださったこと知り、見ることによって永遠の喜びの中にいることができる。主の愛、主イエスの愛が伝わるとき喜びにあふれる。十字架と復活は教会においていつも語られる。それは、天のみ国の喜びを明らかにする。教会は主イエスの復活の恵みを受けている者の集まり、聖餐式はその感謝の時であることを深く感じることができ嬉しい思いに満たされた今朝の礼拝でした。(吉田富江)

先週の説教(2016年3月20日)を受けて 『私たちを用いられる主』

エフェソの信徒への手紙 4章11~13節

 本日、礼拝後に定期総会が行われる。教会総会は、主の御心を示される時である。私達は主が来年度に富士見丘教会をどのように用いられようとしているかを確認して進めていく必要がある。
 聖書に記されている「五役者」(富士見丘教会では長老職にある者)の役割は、率先して喜んで主が与えてくださるものを受け取り、教会を一致させることである。喜びの雰囲気を醸し出していくためには、御言葉を良く聞き、イエス様のことを良く知っている必要がある。ただ、イエス様は非常に大きな存在であり、どんな素晴しい説教でもイエス様の全貌を語ることはできない。喜びを分かち合うことにより、一つ一つのピースは小さくとも、集めれば大きなものとなる。
 『洗足の木曜日』、イエス様は尊い清い血潮で私達の一番汚い所を洗って下さった。その救いの恵みを分かち合い、語り合うための場所が教会であり、死さえも喜びに変えることができる、この世にあって一番強い交わりの場である。
私達も自分の中にある喜びを取り出して分かち合う必要あり、そのようなプロセスを経て、クリスチャンとして成熟して大人になる。私達がそうすることにより、13節にある「キリストの満ちあふれる豊かさ」という教会の完成された形に近づいていく。
 神様はアダムのあばら骨からエバを創り、妻とした。イエス様のあばら骨は十二弟子であり、十二弟子が創った教会である。富士見丘教会もイエス様の花嫁となるべく整えていかなくてはならない。(日吉実)

3月13日 説教を受けて 『教会を建て上げる主』


  エフェソの信徒への手紙 4章11~13節

 3月20日は、年1回の教会総会が開かれ総会資料を基に2016年度の教会の歩みの目標が教会員全員で話し合われ合意を得て決定されます。2016年度の歩みの目標の作成過程で、創立100周年を視野に入れて富士見丘教会をどのように建てていくか教会員からアンケートを取り、オリーブの会、長老会で検討されていますのである意味では教会の合意は半ば達成されていると言えましょう。教会総会はそのことを正式に確認し新たな年に向けてスタートする決意表明の場でもあります。

 教会はキリストの体であり私たち一人一人はその部分であります。主イエスをキリストと告白し信じる私たちは、聖霊による喜びを持って御言葉を受け入れ、主に倣う者となりました。教会は、教会の頭である主が導かれます。教会総会も主が導かれており、総会の準備も主が富士見丘教会をどのように用いられようとしているのか、主の御心を尋ね求めながら、言い換えれば、神の家族としての交わりの中で御言葉を通して示される主の御心を行うことです。その意味では、主のみ言葉と祈りに導かれて主に仕え、教会に仕える者としての声がアンケートにおいても示されていると言えるでしょう。

 総会において新たに長老が選出されます。今日の聖書個所ではキリストの体である教会を造り上げてゆく「五役者」についての言及があります。使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師。「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。」(12,13節)。

 「五役者」とは牧師のことである、或いは長老である、或いは万人祭司と言われる信徒などと解釈があります。長老は教会員による選挙でありますが、選挙された際にはサムエルのように、イザヤのように「主よ、私がここにおります」と臆することなく進み出て主の祝福を受けたいと思います。そして、小さな群れが一致して共に主の教会である富士見丘教会を建て上げてゆきたいと思います。(大橋祐治)