先週の説教(2016年2月20日)を受けて 『イエス様を伝える』

詩編 1篇1~6節
ガラテヤの信徒への手紙 4章1~20節


 なぜ私達は祈る時に父なる神様と呼ぶのか?イエス様も使った「アッバ、父よ」のアッバとは親密な間柄で使う言葉で、日本語でいえば「お父ちゃん」に近い。私達はイエス様の十字架によって天の父なる神様との壊れた関係を修復され、神の子としての身分を与えられており、イエス様と同じように「アッバ」と呼びかけることのできる特権をもっているのである。
 ガラテヤの信徒たちが気にした「日、月、時節、年など」は旧約の律法に基づく祭りや儀式などのことであり、パウロは信徒たちをこのような律法の束縛から救出しようと試みた。律法的な指導者による伝道は、愛に基づくものではなく自己中心的なものであり、自己満足のために教会を振り回していた。私達も、熱心が真理に基づくものか、聖霊に押し出されたものかを見抜く必要があるとともに、信仰が儀式的になっていないか定期的な点検が必要である。
 パウロがガラテヤを訪れたのは、伝道のためではなく健康上の理由であったと思われる。しかしガラテヤの人々はパウロを軽蔑することなく歓迎し、パウロと親密な関係を築いた。そのようなガラテヤの信徒たちが、何故、救いの喜びから方向転換してしまったのか?このパウロの嘆きは、現代の私達に対しても呼びかけられている。
 永遠に私達を喜びで満たし続けることができるのはイエス様しかいない。伝道とは何をしたら良いのか、私達は難しく考えてしまうが、イエス様を伝えること以外に私達の伝道はない。受難節のこの時、イエス様の十字架によって救われた喜びに満たされて、その喜びを人々に伝えていきたい。(日吉実)

2月14日 説教を受けて   『ほかにはない』

   創世記15章1~7節、ガラテヤの信徒への手紙3章15~29節

 3章の前半でパウロはガラテヤの人々に対して「律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされる(救われる)」との福音の真理を彼らの信仰の祖であるアブラハムの信仰によって説明しましたが、後半の今日の聖書個所ではアブラハムへの神の約束とモーセの律法との関係を社会常識に照らしながら説明しています。
私たちの社会は約束(事)によって、或いは契約によって支えられています。そして遺言があり、養育係がおり、相続人に引き継がれます。神はアブラハムとその子孫に約束、すなわち、祝福を告げられました。「子孫」とはキリストのことです。その430年後にモーセに与えられた律法はアブラハムへの約束を反故にするものではなく、神が約束を成就されるまでの養育係の役割を与えられたものでした。即ち、律法は私たちをキリストのもとへと導く養育係であったのです。だから、キリストが来られた今、私たちはもはや養育係(律法)のもとにはいないとの明快な説明です。

 イエス・キリストの十字架の贖いによって、そのことを信じる信仰によって私たちはキリストに結ばれて一つにされたのです。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」キリストに結ばれ、キリストを着た私たちは神の子とされ、アブラハムの子孫であり、約束の相続人です、とパウロは言っています。

 受難節のこの時、十字架の恵みを心に刻みながら真の悔い改めと神の愛、キリストの平和に感謝しつつ日々歩んでいきたい。(大橋祐治)

先週の説教(2016年1月17日)を受けて 『虚勢を張らず』

イザヤ書 56篇9~12節
ガラテヤの信徒への手紙 1章11~24節


 ガラテヤの教会では、信じる信仰だけでは救われず、律法を守らなければならないという、パウロの告げた福音と違う福音を唱える指導者が教会を私物化しようとしていた。それに対してパウロは、純粋な福音の真実性を証しし、福音は人間が作り出したものではないということを強調した。
 私達人間は、ただ信じるだけで救われるということだけでは満足せず、「信仰+人間のわざ」いわゆる自力救済という考えに陥りがちである。キリスト教は、この自力救済を否定し、イエス様を信じることのみ、一方的な神様の恵みによって救われるとした。これがパウロの語った真の福音、イエス・キリストの啓示である。
 ユダヤ教のエリートであり、教会の迫害者であったパウロが、イエス・キリストに出会った次第は、使徒言行録9章にあるが、ダマスコでの劇的な体験の後、律法によっては救われなかった、「信仰+何々しなければ」という概念に囚われてはならないということに気付いた。パウロは二千年後の私達に、人間の良いと思われる行いによって救われるのではなく、神の子であるイエス様の十字架の贖いによって救われ、それを信じるだけで十分であるということを伝えてくれている。
 もう「良い行いをしよう」などという変な虚勢を張るのはやめましょう。私達にとってイエス様の十字架の恵みだけで十分です。救われた恵みを味わって喜んで歩んでいきましょう。そのような人達が喜び集うのが健全な教会です。(日吉実)

1月10日 説教を受けて 「何に頼るのかで決まる」


  イザヤ書57編14~21節、ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節

 ガラテヤの信徒への手紙は、パウロが福音の真理をめぐって混乱しているガラテヤの教会に宛てて福音の真理とは何かを指し示して正しい福音に立ち帰るよう語り掛けた手紙である。その中心的メッセージは「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」(2章16節)。   16世紀初頭の宗教改革を命がけで戦ったルターを支えたものは、このガラテヤ書の福音の真理、いわゆる“信仰義認”であった。

 ガラテヤの信徒達はほかの福音、すなわち信仰だけではなく律法(割礼)も救いに必要との教えに惑わされていた。パウロの使徒職に疑問を抱いていたことも背景にあった。そこでパウロは手紙の冒頭で「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」と、イエスの十字架の死と復活を伝えるのが真の使徒の役割であると主張したのである。そして福音の真理は「主イエス・キリストの恵みと平和」が与えられているのは、キリストが、「私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」ことをただ信じることにあると。

 信仰と行い(律法)については5章6節、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」で学びたいと思う。(大橋祐治)

2016年1月3日 先週の説教を受けて 『神のもとから来た方です』

詩編 107編1節~9節 ヨハネによる福音書 9章24節~34節
ヨハネ福音書9章から盲人の癒しをとおして、主イエスが神のもとから来られた方であることを知る。前回は『預言者です』また、次回は『主を信じます』と盲人であった人の認識の深まりが明らかにされる。ユダヤ人はヨハネの時代にはキリストを認めず、自身が目が見えない者となっている。盲人は奇跡の事実を経験したのである。ユダヤ人たちは安息日論争に置き換えたり、元盲人の恵みの体験を偽りとしている。そんなユダヤ人たちに、元盲人は「弟子になりたいのですか」、あるいは「どこから来られた方か知らないのは不思議だ」と勇敢に挑んでいる。奇跡の事実を受け入れることのみ主イエスを受け入れることと告げられているのである。
元盲人は主イエスは神から遣わされた方、そうでなければ奇跡を行うことはできないと主張している。ユダヤ人は告白を聞いても聞こうとせず盲人を罪人として裁き、奇跡は起こらないと批判を続けている。安息日の掟に縛られ、真理を拒否し主イエスを認めることができず、34節の我々に教えようとしているのかとの言葉はイエス・キリストを受け入れることができない姿、すなわち、神に栄光を帰すのではなく、自分たちに栄光を帰そうとする姿と言える。見えなかったが、今は見えるとの、元盲人の言葉はイエス・キリストが救い主であることを証している。
コリントの信徒への手紙Ⅰ、1-18からは神の力、神の知恵について記されている。弱い私たちに力を与えるために豊かに聖霊が降る。盲人の癒しを通して主日礼拝、聖餐式を大切に守りながらこの一年歩みたいと語られた恵みに心から感謝しました。 (吉田富江)

先週の説教(2015年12月20日)を受けて 『神はそのひとり子を』

詩編 118篇19~25節
ルカによる福音書 20章1~19節


 クリスマスおめでとうございます!
 今日の聖書の中の譬え話でイエス様は、農夫たち⇒律法学者・祭司長たち、ぶどう園の主人⇒神様、僕⇒預言者、息子⇒イエス様の役割を与えている。
 律法学者・祭司長たちは、神様から受けた律法によって民衆を導くべきイスラエルのリーダーであるにも関わらず、律法を自分達の都合の良いように歪めてきた。それを預言者から指摘されても、知ってはいるがやめられないと結局そのままにしてきた。私達も、そうだとは分かっていても、しょうがないと思って続けてしまっていることがないだろうか。私達の周りに、何度注意しても一向に変わろうとしない人がいたらどうだろうか?そのうち嫌気が差し、我慢できなくなり、私達はそっと人間関係を切ってしまうのではないだろうか。
 しかし今日の聖書は私達に伝えている。神様はそんな人間(私達)と、どんなことがあっても関係を断ち切ろうとはしない。私達との関係を大切にしたいと願っている。何故そんなに大切にしてくださっているのか?それは私達が神様にとってかけがえのない大切な存在だからである。では神様の私達への愛はどれほどのものだろうか?それは私達の為ならば自分のひとり子の命さえも惜しまないほどの愛である。
 クリスマスとは、「キリスト」(イエス様)+「ミサ」(礼拝)のことである。礼拝とは、その根源が私達を見捨てずにひとり子を惜しまずに与えてくださった神様の愛への感謝である。クリスマスは、何よりもその大きな愛が私達に示され、それに感謝する日である。(日吉実)

12月13日 説教を受けて  「イエスは主」 

  イザヤ書55章1~5節、マタイによる福音書1章1~17節

 旧約聖書に続く新約聖書の最初の福音書であるマタイによる福音書がイエス・キリストの系図で始まっていることに、神の救いのご計画、主イエスの福音が凝縮して示されている点で改めて注目しなければならない。マタイは主イエスが旧約で予言されたメシアであることを信じようとしないユダヤ人に、系図を示して“アブラハムの子孫、ダビデの子孫であるイエスは救い主キリストであった”と叫んでいるのである。

 イエスの時代のユダヤ人は二つの誇りに支えられていた。一つは、神はアブラハムを選び、アブラハムの子孫であるイスラエルの民(ユダヤ人)を通してすべての民の支配を約束されたこと、そして、ダビデの子孫からメシアが与えられ、メシアによる統治は永遠に続くとの約束、この二つの神の約束である。この二つの約束が共通認識・アイデンティティとしてユダヤ人の根底にあった。しかし、ユダヤ人は十字架にかけられたナザレのイエスこそ待ち望んだメシアであり、神が約束された預言の成就であることを受け入れなかった。主イエスの存在を認めず無視したのである。

 省みると私たちも信仰を与えられるまではユダヤ人と同じように主イエスの存在を認めず無視する姿勢を取り続けていた。しかし、私たちは今、主イエスは私たちの救い主との信仰を与えられて永遠の命の希望に生かされてこの世の歩みを進めている。降誕節の時を、救われた恵みに感謝し、クリスマスに向けて心を整え、クリスマス礼拝において喜びに満たされた姿勢で、まだキリストの福音を知らない人々に大胆にキリストを証ししてゆきたいと思う。
(大橋祐治)