2015年12月6日 先週の説教を受けて 『預言者です』

エレミヤ書 31章31節~34節 ヨハネによる福音書 9章13節~23節
11月8日には目の見えない人への癒しはクリスマス、主イエスの誕生を待つアドベントの出来事を証していること、イエス・キリストはどなたか、と、イエスに対する告白であることが語られた。続く今朝の箇所、『預言者です』は神の力、支配、一方的な恵みを表している。ファリサイ派は安息日に癒しが行われたことを神のおきてを犯すこととして両親を尋問し、ユダヤ人は主イエスがメシアであることを認めず追放を決めているが、目の見えない人は見えるようになった恵みの業にあずかり、はっきりと『預言者です』と告白している。
目が見える、見えないという言葉から私たちにもイエス・キリストの恵みの業にどのようにあずかっているかが問われている。主イエス・キリストの十字架の死、復活によって私たちの霊の目は開かれ、何に向かって生きるかを知らされ、永遠の命の希望が与えられていることが証されている。ユダヤ人は権威の失墜を恐れイエス・キリストの恵みの御業を認めることができないが、私たちは主イエス様が神のもとから来られた方であること確信をもって受け入れことができる。イエス・キリストこそわが神、わが救い主と崇め、神様の弟子として歩むことのできる幸いに感謝し、アドベントのこの時、主イエス・キリストの御降誕と、再臨を待ち望む日々を喜びをもって過ごすことができるようにとの思いを深めることができました。この説教を通して改めて神様のお恵みの豊かさに預かる幸いを与えられました。 (吉田富江)

先週の説教(2015年11月15日)を受けて 『礼拝の恵み』

詩編 42篇2~6節
ヨハネによる福音書 4章1~30節

 イエス様は「サマリアを通らねばならない」Mustな課題があった。それは、唯一つ、サマリアの女に出会い、彼女の心の渇きを癒して本当の救いに導くことであった。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネによる福音書15章16節)とあるように、イエス様が行動を起こして、私達と出会って心の渇きを癒し、本当の救いに導いてくださるというのが、聖書が一貫して語っている福音である。
 サマリアの女は、イエス様と話しているうちに変えられていったが、創り変えられることが怖くなり、論争によりイエス様の救いの御手を払いのけようとした。この創り変えられる怖さというのは私達にも共通する。しかし、イエス様は「婦人よ、わたしを信じなさい。」と不安を癒してくださるのである。
 「人生は出会いが大切」といわれる。確かに人と出会うことにより成長することはあるが、それで満足してしまってはならない。互いに欠けのある人間同士が出会っても完全な者となることはできない。欠けのない完全な方=神様が私達に出会ってくださるのが、この富士見丘教会の礼拝である。礼拝で重要なことは、知恵と啓示の御霊=聖霊を求めることである。礼拝の場でイエス様は苦しむ私達の所へ来てくださる。イエス様に出会って創り変えられる歩みは素晴しいものである。聖霊を求め、御言葉を聞き、主の愛に触れて、創り変えられる。素晴しい歩みを進めていきたい。(日吉実)

11月8日 先週の説教を受けて  「神の業が現れるためである」

  イザヤ書35章1~20節、ヨハネによる福音書15章12~20節

 生まれつきの盲人を目が見えるように癒されたシロアムでのイエスの奇跡の出来事から私たちが学ばねばならないことは、信仰において私たちもすべて生まれつき目の見えない者であるということである。「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1・18)。人は、神の独り子イエスへの信仰を通して父なる神を知る。

 弟子たちは因果応報の目で盲人を見たがイエスのこの人を見る眼差しは神の独り子としてのそれであった。弟子たちに神の業がこの人に現れるためであるとお答えになったイエスは盲人の目に唾で土をこねて塗り、シロアムの池に言って洗うよう盲人に言われた。盲人はイエスの言われたとおりに行い目が見えるようになった。近所の人々は彼が物乞いをしていた盲人であることが分からなかった。目が見えるようになった盲人は変えられたのである。

 イエスの盲人に注がれた眼差しは今も私たちに注がれている。シロアムとは遣わされた者という意味、即ちイエス・キリストを指す。シロアムの池で洗うとはイエスによって洗礼を受けキリスト者になることである。“唾で土をこねて”は創世記のアダマとアダムを想起させるが、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者である。イエスは「まだ日のあるうちに行わねばならない」と言われ、わたしは世の光であるといわれる。私たちもイエスの真の光を受けて世の光である。
 
 「その人はどこにいるのか」と問われたかって盲人であった彼は「知りません」と答えた。私たちは主イエスの真の光を高く掲げて勇躍して人々をイエスのもとに招いていきたい。(大橋祐治)

先週の説教(2015年10月18日)を受けて 『御腕に堅く抱かれて』

申命記 31章1~8節
ヘブライ人への手紙 13章1~5節


 本日のヘブライ人への手紙13章には、クリスチャン(御言葉を信じた者)の生活について細かく記されている。信仰生活と日常生活は二つに分かれておらず、信仰とは生きることそのものであり、裏表なく生きることが福音に生きることである。しかし冷静に考えてみると、ここに記されていることはクリスチャンに独特なこととは言い切れない。この世の中において誰もが考え求めていることである、一つ一つ簡単ではないが、至極まっとうなことである。
 私達はイエス様の十字架の出来事によって、イエス様を中心に兄妹姉妹とされている。大切なことはイエス様が与えてくださった兄弟愛の中に留まり続けることであり、イエス様が与えてくださった愛の共同体である教会の中で、自分が弱い罪人の一人であるという気付きから歩みことである。
 「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない。」この御言葉の具体的な形としてインマヌエルなるイエス様が私達のところに来てくださった。この兄弟愛の中に留まり続けなさいといったイエス様ご自身が私達と共に留まり続け、私達を抱きしめてくださっている。
 「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31章6節)にある通り、私達を生かしてくださるイエス様、父なる神、聖霊を信じて、先立って歩んでくださる主に従い、恐れずに、これからの歩みを歩んでいきたい。(日吉実)

10月11日 先週の説教を受けて 「主のものとされる喜び」


  申命記 15章12~18節、ローマの信徒への手紙14章7~8節

 今日は神学校日ですが、正確には「伝道献身者奨励日」と言います。神学生を礼拝説教に招き、また、将来牧師となる献身者が起こされることを祈る礼拝ですが、献身が意味するところはその事だけに限りません。牧師も信徒もすべてキリスト者は献身者であることを覚えましょう。今日の聖書の個所はその核心を言い得ています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

 献身とは主の十字架の贖いによる救いのみ業に与り、その恵みに感謝して主のみ旨に聞き従って歩む者の覚悟であり、われらは主のものとの自覚を持つ者のことです。それゆえにキリスト者はすべて献身者なのです。私達一人一人、すべてそれぞれ異なる賜物を頂いておりますが、また欠けの多い存在です。それぞれの賜物を差し出し、欠けたるところをお互いに補い合って主のみ旨に応えて主の栄光を表す、それが教会の姿です。教会は牧師と信徒がそれぞれの役割を分担し合い共に建てられるものです。

 先日、近隣教会合同研修会での発題の機会に、富士見丘教会の15年間の歩みの振り返りで一つの気付きが与えられました。それは、2006年から教会の宣教方針が「宣教活動方針」から「歩みの目標」に変わったことです。トップダウンからボトムアップへというと少々言いすぎかもしれませんが、牧師と信徒が共に教会を建てようという意味がそこに込められています。主のものとされる喜びの自覚を新たにして歩みの目標に向かって歩みたいと思います。

2015年10月4日  先週の説教を受けて 「『わたしはある』というお方 

創世記 17章1節~8節 ヨハネによる福音書 8章39節~58節
  ヨハネの福音書には「ある」という言葉が重ねて出てくる。神がご自身のことを表すことを主イエスが受け継いでおられるゆえに。主イエスご自身がわたしは天地が創られる前から、そしてこれからもわたしが真理であると言っておられる。主イエスとユダヤ人との論争はずーと続いている。ユダヤ人はアブラハムの子孫である、神の祝福を受け継いでいると自負している。しかし主イエスはあなた方は私を殺そうとしている、わたしは神そのままの存在であるのに、石を投げつけようとしていると激しく議論されている。議論はかみ合っていない。アブラハムの信仰から神の救いが成就することをユダヤ人は受け入れず、主イエスを十字架につけることになる。
これらの議論は分かりにくい。主イエス・キリストを神の子として信じることがなければ分からない。いつの時代も教会が受けて来た問題となってきた。悪魔の子は自分の欲望を満たすため、神に栄光を求めず、自分の栄光を求めている。善い行いをして正しい者であると主張する。神の子とされた者は神の御業を表す者として自身の栄光は求めない。
 キリストの十字架は勝利のしるしとなり、私たちの救いとなった。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と言われる主イエス・キリストを、私たちの心に刻まれた十字架とともに復活の命を、永遠のいのちを希望として歩みましょうとの力強い励ましを受けました。(吉田富江)

2015年9月20日 先週の説教を受けて 『ライフスタイル』

詩編 146編 1節~10節 使徒言行録 14章8節~19節 
今日の聖書の箇所ではパウロのリストラでの伝道の様子、癒しの業が記されている。足の不自由な男はパウロの語るみ言葉に熱心に聞き入っていた。癒されるにふさわしい信仰を認めたパウロは「自分の足でまっすぐに立ちなさい。」と言うと男は躍り上がって歩き出した。これを見てパウロとバルナバを崇めようとした群衆に偶像礼拝から離れて「生ける神に立ち返れ」とパウロが語っている。このような偶像礼拝、リストラの人々の姿は現在の私たちと重なっている。ひたむきに、ひたすらに喜びの福音を聞こうとしている足の不自由な男に学ばなければならないと聖書は私たちに告げている。
 世界においてまた、日本においても教会を取り巻くこの世の環境は変わっていき、これまでと違う状況になることがあっても、いつの時代も教会の語る福音は変わることはなく、主イエス・キリストの救いの業は変わることないと説教を通して告げられたことは大きな恵みです。
今朝の礼拝からパウロの力強い語りかけが届いた。主イエスの十字架と復活を思い父なる神のみ心にとらえられ、心からの感謝、讃美の礼拝がささげられるようにと願い、揺るぎのない福音に向き合う者としてくださいとの思いに満たされた。主の福音は神の愛に満ち溢れている。私たちを癒し、勇気を与え、正しいことを教えてくださいます。私たちのライフスタイル、神の恵みの中に生きる者として成長させてくださる豊かな神の愛、主の福音に生きることです。(吉田富江)