9月13日 先週の説教を受けて 『大切だから探す』

敬老ファミリー礼拝 説教  

ルカによる福音書15章1~7節

 今年の教会学校のサマ―・スクールでは「無くしたけど、みつかった!」というテーマでルカ福音書15章の「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」の3つのイエスのたとえについて学んだ。見失った羊のたとえでは、百匹の羊のうち一匹を見失った羊飼いが、その一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか、とイエスは私たちに問われている。イエスは続けて「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』というであろう。」と言われる。イエスは、これらのたとえを通して私達一人ひとりが神にとってかけがえのない存在であり、神のもとに立ち帰ることを大きな喜びとされる神の思い、神の愛をお示しになっている。そのような神の思いは、神の独り子イエスの十字架と復活という行動によって実現された。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)
 
 神の独り子イエスさえも犠牲にされて神のもとに立ち帰る私たちを大いに喜んで受け入れてくださる神の愛。クリスチャンとは常に品行方正で過ちを犯さない者ではなくて、イエスとの出会いを通して神の愛を知り、神に感謝し喜んで神の愛の中に生き、イエスに従って新しい命を生きる者のことである。そして教会は、そうした人たちの集まりである。

 これから子供たちが賛美する「新しい命」に共に耳を傾けましょう。(大橋祐治)

先週の説教(2015年9月6日)を受けて 『真理はわたしを自由にする』

出エジプト記 3章13~14節
ヨハネによる福音書 8章21~38節


『聖書の伝える真理』とは、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 13:13)にあるとおり、父なる神様から遣わされ、ご自身の十字架と復活の出来事で愛を示してくださったイエス様こそ、真理である。
また『聖書の告げる自由』には、
①「罪からの自由」・・・罪を犯していないと言い切れるキリスト者はいない。ただ罪の奴隷という場合には罪を罪として認識することができず罪を犯し続けることであり、キリスト者は罪を認識し、罪と闘い、罪を悔い改める者とされる。
②「神の子へと至る自由」・・・神様の御前における自由であり、奴隷ではなく子として神様の家を私の家とすることで自由に振る舞えるのである。
の二つの側面がある。但し、この自由にはイエス様の言う「わたしの言葉にとどまる」という条件が付いている。この条件は、イエス様を信じた人々に告げられており、一時のものではなく、常に御言葉の中にとどまり、御言葉に日々親しみ、御言葉に従った生活を整えていく必要がある。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書 14:6)という御言葉を信じ、御言葉と共にある生活を続け、そのために祈り続けることにより、私達はイエス様の本当の弟子となっていく。神様が私達の真の父となってくださる。そうなれば私達は何を恐れることがあろう。何も恐れるものはない。本当の自由がある。祈りつつ、恵みに感謝しつつ、神様の自由の中で軽やかに生きる者となりたい。(日吉実)

8月9日 先週の説教を受けて 「回復された私達」


  創世記11章1~9節、使徒言行録2章14~21節

 ノアの洪水の出来事の後、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」が、主は全地の言葉を混乱(バラル)させ、彼らを全地に散らされた。彼らが、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言ったからである。天まで届く塔を建設することは、人間が神の座を手にすることであり、神の座を手にすれば、人間はすべてを支配することができると考えたのであるが、科学と技術をもってすれば人類は世界を、宇宙を征服出来るとの誘惑に今も唆されている。人間の罪の本質である。人間が神に背いたため、言葉が混乱し、隣人とのコミュニケーションが破壊された。

 聖霊降臨の出来事は、神がイスラエルに与えられた救いの約束が、イエスの十字架の贖いと復活、昇天後に降り注がれたイエスの約束の聖霊によって成就されたことを証ししている。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」。バベルの塔の出来事で全地に散らされた人々はそれぞれ異なる言葉を話していたが、しかし聖霊降臨のこの時、福音は言葉の壁を乗り越えてすべての人々に伝えられたのである。聖霊がみ言葉を持って語られる福音宣教の時代の到来であり、教会の誕生、一人一人が聖霊に満たされて福音を語り始め、そして今日、それぞれの地域でそれぞれの言葉によって一つの福音が語られている。

 世界のバラル(混乱)はなお収まるところを知らないが、恵みによりキリストの福音に与った一人として、また、福音を信じる群れに帰属する者として、再臨の時への希望を信じ、聖霊の注ぎを祈りつつ、福音の証し人として主に従う喜びに生きる者として歩みたい。(大橋祐治)

2015年8月16日 先週の説教を受けて 『沈黙に響く神の愛』

出エジプト記 23章12節~13節 ルカによる福音書 14章1節~6節
ファリサイ派、律法の専門家たちは律法を守ることに関して自負している。今朝の箇所では安息日に病気の癒しをされるイエス様に論争を仕かけているが、論争はなさらない。
イエス様の問に答えることができず沈黙している人々の姿が記されている。イエス様の本当の思いだけが響いていると今朝、富士見丘教会の説教に主から遣わされた、家次恵太郎神学生の口を通して語られた。律法学者は律法(文字)のみを守っており、イエス様の安息日の行動を批判し、訴えの口実を見つけたいため議員の家の周りに集まっていたのが分かる。
 水腫を患っている人はイエス様に会うため、癒しを受けるために、安息日に主にお会いする喜びを味わうために来ている。ファリサイ派、律法学者はイエス様にこれまでも論争を仕掛けているが、いつも答は決まっているとの解き証を受けた。5節では「自分のことであったらどのようにするか」と問いかけられる。癒しの必要な人にはすぐに癒しを与えられるのは神さま愛の業と、イエスさまの思い、言葉は定まっている。論争する必要はないと。律法の背後にある神の愛が問の形をとって宣言されていると語られた。
 反対者たちが反論できず恥じ入ったと、13章7節にある。イエス様のお答は決まっている。それは分かりきった答で誰にも反論できないということが重ねて示されている。
 私たち一人ひとりが神様のもとに引き上げられるために神様は私たちの罪を赦し、神の愛の中にいてほしいと望んでおられる。平和を作り出す者としてイエス様の声を聴く、
礼拝をとの語りかけを通して、神の愛が響く幸いな時が与えられました。(吉田富江)

先週の説教(2015年8月2日)を受けて 『あなたたちは何も知らない』

申命記 19章15~21節
ヨハネによる福音書 8章12~20節


 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」本日の聖書の箇所は、私達に馴染み深い、有名な、慰めに満ちた言葉で始まっている。
 イエス様がいなければ世は闇であり、暗闇の中を歩むことになる。暗闇とは、①罪に覆われた闇、②自分がどこから来て、どこへ行くのか知らない闇、③まことの希望を知らない闇のことである。
①この言葉が語られた時の状況は、仮庵祭の巨大な燭台に火が灯され、神殿のみならずエルサレムの町を照らさ れていたと考えられる。しかし燭台の光は、罪の闇を照らすことはできない。これに対して、イエス様の光は私達の本当の姿を照らし出し、悔い改めへと導いてくださる。
②またイエス様は、約束の地、神の国へと導いてくださる、自分がどこから来てどこへ行くのか知る者であり、私達の希望である。
③そして主イエス・キリストの復活の命・永遠の命を信じることにより、私達の決して失われることのない希望が生まれる。
私達のこの世の歩みは、一寸先は闇といわれる。突然の悲しい出来事にあうことは、誰の人生においても起こりうる。しかし、このような状況の中にあっても、イエス様を信じる者は、全く希望が無くなるようなことはない。イエス様は昔も今も将来も、変わることなく、私達の光であり続ける。この光を私達から奪うことができる力は存在しない。何と幸いなことか。心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、私達の主イエス・キリストをほめたたえて歩んでいきたい。(日吉実)

2015年7月19日 先週の説教を受けて 『造りかえられる喜び』

申命記 9章8節~21節 コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章1節~18節
7月12日には、礼拝から、全体修養会から私たちには神の子どもとしての身分が与えられていること、主イエス・キリストがご自身の命にかえて与えてくださった恵みの豊かさにあずかるためには、み言葉による礼拝以外に磨かれることはないとの学びをした。また、修養会は一回で終わることでなく磨かれ続け主の似姿に代られていくためには続けて行くことが必要との示しを受けた。
 罪ある私たちは神のみ前で自分を正しい者とすることはできない。イエス・キリストが身代わりとなって私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与え、聖霊によって造りかえ、神のみ前に義なる者、正しい者としてくださっていること、神の子どもとして祝福を受け継ぐものであることを信仰の根幹、中心としての信仰生活を歩む者となるようにと示された。
 バプテスマを受けた私たちは主の霊の働きにより清い者にかえられていく。罪の奴隷から神の子どもとし、決して罪の奴隷に後戻りすることはないとのめぐみの言葉を受けた。そして聖化から栄化へとかえられていくと。私たちの実生活の中で主イエスをかなめ石として成長していくことから地上にありがなら神の子として、天のみ国の民として地上に生きることができると恵みのことばをいただいた。
 神の栄光をあらわすために、恵みの喜びをあらわすために小さな一歩の積み重ねを着実に続けながらゴールに向かい、主のみ姿を仰ぎ見、主イエス・キリストに従う歩を通して栄光から栄光へと歩ませてくださる主の霊の働きかけ、主の導きに感謝する信仰生活が守れますように祈り続けたいと願いました。(吉田富江)

先週の説教(2015年7月5日)を受けて 『罪人を赦すイエス』

申命記 5章1~22節
ヨハネによる福音書 8章1~11節


 本日の聖書の箇所を読んで、我が身を省み、身につまされない者はいない。律法学者やファリサイ派の人々の姿に我が身を重ね合わせてしまう。自分こそが正しい人であると思い、他人を見下す時、ある種の満足感を得る。この醜さを聖書は描き出している。
 イエス様は、罪を犯した女性と二人きりになった時、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」といって女性を赦した。ただし、イエス様の赦しは、決して甘いものではなく、厳しいものである。自らが死刑に値する罪人であることを認め、悔い改めることが必要なのである。律法学者やファリサイ派の人々のように立ち去ってはいけない。イエス様の御言葉を受けるには、イエス様と二人きりになり、悔い改めなければならない。キリスト者とは、このイエス様と二人きりの時を持った人、自らの罪を認めてイエス様の赦しの御言葉をいただき、イエス様の御前に悔い改めた人のことである。
 私達が死を迎える時、イエス様の御前に立ち、二人きりで会うことになる。そしてイエス様の「わたしも罪に定めない。」との赦しの御言葉をいただくのである。
 私達は、自分こそが正しい者として他人を見下して満足するような歩みと訣別し、悲しむ者と共に涙し、喜ぶ者と共に喜ぶ、私達を赦してくださったイエス様の赦しの中で互いに赦し合う者として、御国を目指して歩んでゆきたい。(日吉実)